1/144 航空機(飛行機)

零式艦上戦闘機(ゼロ戦) – 伝説の日の丸戦闘機を1/144サイズで紹介!

連合国軍からは「ゼロ戦を見たら逃げるように」との指令がでていたほど、その化け物のような旋回性能と上昇性能、航続性能を有する日本を代表する戦闘機です。延べ1万機以上が生産され、日中戦争から太平洋戦争、そして終戦まで、日本海軍の主力戦闘機として活躍を続けました。

その性能にアメリカ軍は以下3つのネバー(Never:してはならない)といって

「零戦と格闘戦をしてはならない」

「背後を取れない場合は時速300マイル以下で、ゼロと空戦をしてはならない」

「上昇する零戦を追尾してはならない」

という勧告を、零戦との空戦が予想される全てのパイロットに対して行ったほどです。

零式艦上戦闘機(ゼロ戦)の性能(スペック)

格闘性能 :★★★★☆
防御力  :★☆☆☆☆
最高速度 :★★☆☆☆
航続距離 :★★★★☆

ゼロ戦の性能を一言で言うと
防御力無視で格闘力に特化した日本刀
のような機体と言えます。

・格闘性能

ゼロ戦の格闘性能は非常に高いものでした。旋回性能を高めるため、機体の骨組みまで穴を開け機体の軽量化をグラム単位で追求した結果、旋回性能は極めて優秀なものでした。

一方で、極端に装甲を削ったため、急降下時には主翼がもげるほど脆弱でした。そのため、敵との戦闘中であっても、急降下による攻撃・離脱が出来ない機体でした。

・防御力

防弾性能がないことから敵の機銃弾が主翼をかすめただけでも火だるまとなり、またパイロットの座席背後にすら防弾板もないため、一度敵に背後を取られたら最後、確実に撃墜される機体でした。

・最高速度

最高速度は500 km/h (270kt) 超の564km/h。当時の戦闘機としては標準的な速度でした。アメリカ軍のP-40ウォーフォークは576km/h、イギリス軍のスピットファイアの速度は594km/hと同水準でした。ただ、ゼロ戦は軽量化のため装甲を削りに削ったため急降下に弱い欠点がありました。徹底した軽量化により機体強度の限界が低く、初期型の急降下制限速度は、米軍機よりも低い629km/hでした。これは後に改善され、五二型以降では急降下制限速度は740km/hまで改善されています。

・航続距離

零戦は約2,200kmの航続距離を持っています。これは当時の単発戦闘機(プロペラが一つだけの戦闘機)としては珍しく、長航続距離で遠隔地まで爆撃機を援護できる戦闘機でした。例えば、アメリカ軍のF2A バッファローは航続距離が778km、P-40ウォーフォークは1,207km、イギリス軍のスピットファイア初期型の航続距離が680kmであることと比較しても、2,200kmの航続距離の長大さが分かります。
長大な航続力は、作戦の幅を広げることができるため戦略・戦術的に有利に展開することができます。太平洋戦争開戦時、フィリピンへの戦闘機の到達は、当時の常識からすると空母なしでは実施不可能な距離でした。しかし、ゼロ戦の航続距離が長大であるため、台湾の基地航空隊からフィリピンまで到達できていました。フィリピンに駐在していたアメリカ軍は近くに空母があると勘違いを起こしたそうです。笑
一方で、ゼロ戦は他の単座戦闘機とくらべて航続力が長いため、その分長距離飛行の技術が操縦員に求められました。



ゼロ戦は攻撃は最大の防御なりを体現した機体ということができるでしょう。旋回性能については、第二次世界大戦初期の連合国軍のどの航空機と比較しても高かったとのことです。実際、優秀とされる初期型のスピットファイアよりも優位に戦えていたようです。

一方で、防御力はなく、敵機の機銃弾が主翼をかすめただけでも火だるまとなるほどでした。「あたらなければどうということはない」というシャアのセリフをそのまま体現した機体ですね。

零式艦上戦闘機(ゼロ戦)の戦歴

中国での初戦

ゼロ戦の初陣は日中戦争で、1940年中国大陸における空中戦で、その初陣はとても華々しいものでした。中国大陸上空を13機のゼロ戦が変態飛行していたところに、中国軍が有するソ連製戦闘機、I-15、I-16合計27機が襲いかかります。当時の空中戦は陸上戦闘以上に数がモノを言う世界でした。日本の戦力に比べ倍以上の数であった中国軍は束にかかってゼロ戦に襲いかかりました。当時の常識では、日本側の惨敗が予想される極めて劣勢の状況でしたが、結果としてゼロ戦の13機編隊は、中国軍機27機を全機撃墜。しかも日本側には被害は皆無という奇跡的な戦果を収めました。搭乗員の練度の高さもさることながら、信じがたい戦果を上げました。

この戦果を、連合国軍は「日本にそんな戦闘機が造れるわけがない」と信用しなかったため対応策が遅れ、そのまま1941年、昭和16年の太平洋戦争の開戦まで、米軍を始めとした連合国側は、これといった対抗策を採ること無く開戦を迎える失策をしでかすこととなります。

太平洋戦争での戦闘

太平洋戦争が開戦し、熟練パイロットの神業のような操縦技量にも支えられた日本海軍のゼロ戦は連合国側の戦闘機、爆撃機、攻撃機を次々と撃墜し、「ゼロショック」で世界を震撼させることとなりました。そこで、冒頭でも紹介した3つのネバー(Never:してはならない)
「零戦と格闘戦をしてはならない」
「背後を取れない場合は時速300マイル以下で、ゼロと空戦をしてはならない」
「上昇する零戦を追尾してはならない」
という勧告をアメリカ軍が航空機パイロットに通達する逸話を残しています。


一方で、ゼロ戦はアメリカ軍に鹵獲され、徹底的に研究をされることとなります。そこでアメリカ軍はゼロ戦とまともに格闘戦を行わず、防御力と急降下性能の弱さに気づいて編み出した「一撃離脱」戦法の導入を行い、開戦から1年後には、ゼロ戦は全く戦果を挙げられない状況まで追い込むことができました。ゼロ戦は1943年には旧式化し米軍の「スコア稼ぎ」の的になっていきます。

ゼロ戦で活躍したエースパイロット

まず前提として、日本海軍における撃墜数は1943年以降の個人撃墜数の公式記録が存在しないため、撃墜数は自己申告や、他者の証言により行われています。

岩本徹三(いわもとてつぞう)


あだ名は最強の零戦パイロット。また、自らのことを零戦虎徹と呼んでいたとのこと。

大日本帝国海軍の戦闘機パイロット。主として零式艦上戦闘機に乗り込み、戦績を挙げた。戦績は中国戦線の時点で14機撃墜、総数202機(自己申告)または撃墜報告80機と言われています。


人物


1916年樺太生まれ。農学校を卒業後、海軍の志願兵試験をうけ入隊、航空隊に入り、整備体に配属され、志願してパイロットとなります。中国戦線で第十三航空隊に配属されますが、同航空隊においてはほかのパイロットは化け物揃いで、第十三航空隊の田中氏は

「あの頃はすごいパイロットがそろっていた。先任搭乗員黒岩利雄、次席が赤松貞明、3席が虎熊正。私や武藤金義、あとから来た岩本徹三なんか食卓番ですよ。この頃の古い人たちはそれぞれ操縦もうまく名人ぞろいだった」

と語っています。ちなみに、ここで名前が挙がった方はすべて後のエースパイロットです。笑

その中でも14機撃墜と目覚ましい成績を上げ、功5級金鵄勲章を受けました。

その後空母の艦載機の操縦士となり「瑞鶴」に搭乗する(これは太平洋戦争の下準備であった可能性が高い)。この時に学んだ戦術がのちに撃墜王と呼ばれることになる下地となります。 太平洋戦争が始まると真珠湾攻撃に参戦。その後セイロン沖海戦にて初戦果を挙げる。珊瑚海海戦においては一機撃墜、空母瑞鶴をよく守った。

1942年8月、搭乗員の訓練要員として本土に帰還。11月には上等飛行兵曹となる。1943年11月には201空(ラバウル)に配属。オーストラリアの北、ニューギニアの東に位置するニューブリテン島ラバウルを太平洋戦争中守ることができたのはまさに岩本がいたからだと言われています。ラバウルにおいては数十機程度の防戦であったにもかかわらず、アメリカ軍は1000機単位と誤解していたのはこの人物の活躍があったためです。

連合軍パイロットは「龍の顎(ドラゴン・ジョーズ)」と呼んで怖れました。それは地形が龍の顎に似ているだけでなく、その基地から飛び立つ零戦隊の精鋭が待ち構えていたからです。それこそが日本海軍が誇る最強部隊「ラバウル航空隊」であり、1943年後半から1944年にかけてのラバウルのトップ・エースが岩本だったのです。岩本の着任後、たった一週間で隊全体で敵52機を撃墜(岩本は7機を撃墜報告)。また敵14機編隊を一度に撃墜ということをやってのけました。

とはいえ、物量で勝るアメリカ軍は連日、数百機単位の編隊で来襲し、迎え撃つ岩本たちは、敵機より性能で劣る零戦30機程度で迎撃している状態でした。しかも、人員の交代はもちろん、機材の補給も滞りがちな、まさに危機的状況だったのです。しかし、そうした中で岩本をはじめとする搭乗員たちを支えたのは、空に散っていった戦友たちが遺した「敵機は必ず、俺たちが落とす」というラバウル魂だったといいます。そして岩本も心身をすり減らしながら獅子奮迅の戦いを続け、。ラバウルでは60機以上を撃墜したと言われています。機体に描く敵機撃墜の桜マークで、岩本機の胴体後部はピンクに染まりました。

ラバウル配属後は、日本本土の航空隊にいて、台湾沖航空戦、フィリピン沖海戦に参戦しています。1944年11月に少尉に昇進後、1945年3月に厚木の203空に移動。特攻の護衛や、特攻機のパイロットの訓練などを行い、 1945年8月の終戦時まで生き残ります。

岩本徹三の戦い方


航空戦においては一撃離脱戦法を得意としていました。これは敵機の後方上空斜め上から敵に突撃する形で突入し、機銃掃射で敵を破壊するという方法です。その他にも、航空機同士の格闘戦も彼の得意分野でした。他にも、戦術として有名なものはいわゆる「送り狼」と呼ばれるもので、基地攻撃後のアメリカ軍を奇襲により攻撃する方法です。


他者にコツを聞かれた際、「とにかく見張ることが重要である」と答えていました。事実、パイロットとしては目はそれほどよくはないにもかかわらず、敵を見つけることには長けていました。また他にも、無線機のモールス電信を活用した戦術を活用したり、無線受信を利用して敵の位置を確認するなどの作戦もとっていました。


杉田庄一

杉田庄一はソロモン戦線における第204航空隊のトップエースで、撃墜数は日本海軍戦闘機隊のなかで5本の指に入る人物です。その撃墜数は、海軍が公認している数で単独撃墜70機と協同撃墜40機となっています。

来歴

1924年新潟県で生まれ、15歳で農学校を中退、海軍に志願入隊。1942年3月、戦闘機の飛練教程を終え、6空付となって10月にブイン基地に進出した。12月1日の初空戦で杉田飛長は、飛行場上空で神田佐治飛長とB-17を協同撃墜した。戦闘中に右翼がB-17と接触したが、かろうじて無事に着陸を果たしています。28日にもブイン上空で僚機と協同でB-17 1機を撃墜しました。1943年1月2日、ニュージョージア島ムンダ上空でVMF-121のワイルドキャットと戦い、1機撃墜を報じた(米側の損失機は2機)。月末までにさらに3機のF4Fを撃墜し、B-24 1機を協同撃墜した。
4月18日、杉田飛長は山本五十六連合艦隊司令長官らの搭乗する2機の一式陸攻を掩護して、他の5機の零戦とともに出撃した。一行は待ち伏せたP-38に奇襲され、一式陸攻は2機とも撃墜された。はげしい空戦の結果、杉田飛長はレイモンド・K・ハイン中尉操縦のP-38に命中弾をあたえた。ハイン機を落としたのは彼だったもようで、米軍の喪失はこの1機のみだった。

ただ、ここで山本五十六は司令長官を守り切れなかったという敗北感に、おのおのの搭乗員が苦しめられた。戦死によって名誉を挽回すべく、危険な戦闘に身を投じ、3ヶ月後には4人が戦死、5人目の柳谷謙治飛長も重症を負い、本土に送還された。しかし、ひとりのこった杉田ニ飛曹は死を甘受するかわりに、はげしくなる一方の戦闘に闘志をもやし、すでに剃刀のような切れ味の戦闘技術にさらに磨きをかけ、敵をして心胆寒からしめる存在となっていった。

6月12日にはガダルカナル上空で交戦し、はじめてF4Uコルセア1機の撃墜を果たし、ほかに1機を協同撃墜した。4日後にもコルセア1機を撃墜している。しかし杉田ニ飛曹のF4Uは8月25日が最後となった。その翌日、海兵隊は猛烈な反撃に出て、VMF-214またはVMF-215のコルセアがショートランド南東上空でニ飛曹の乗機を撃墜。大火傷を負いながら落下傘降下した杉田ニ飛曹は本土に送還された。

1944年3月、第263航空隊付を命じられ、カロリン諸島、マリアナ諸島での激しい戦闘任務に従事。7月8日に重松康弘大尉(飛行隊長、総撃墜数10機以上)を率いる6機の零戦でパラオに向かう途中、ヤップ付近でVF-31のヘルキャット群の攻撃を受けた。

杉田機以外は落とされ、彼はかろうじてペリュリューに逃れた。指揮官を失い、グアムに数機をのこすのみとなって、2日後に263空は解体され、杉田一飛曹はひとにぎりの生存者とともにフィリピン北部に移った。

フィリピンに展開する201空がつぎの配属先となった。
ふたたび連日の空戦をこなし、同僚があいついで命を落としていくなかで、杉田一飛曹はつぎつぎと撃墜を果たしていった。

彼の主張によれば、1945年(昭和20年)1月に本土に帰るまでに120機以上を撃墜したという。

1944年12月、源田実大佐によって四国の松山に新鋭機紫電改を独占装備した精鋭戦闘機部隊343空(2代)が編成された。源田大佐自身が杉田上飛曹を隊員に指名し、到着するや戦闘301飛行隊付を命じられた。343空最初の戦闘は1945年3月19日に呉上空で展開され、杉田上飛曹の区隊(4機)はヘルキャット3機を撃墜した。343空では隊長の菅野に信服し他の者が悪口でも言おうものならば殴りかからんばかりだったという。

杉田上飛層が死神の手に落ちたのは4月15日のことであった。
沖縄周辺のアメリカ艦艇にとって深刻な脅威となっている特攻機を破壊するために、米艦上機が九州各地の飛行場を襲撃に来た。ロバート・”ドク”・ウェザラップ少佐率いるヘルキャットが鹿屋飛行場攻撃に来襲したとき、杉田上飛曹は列機の宮沢豊美ニ飛曹とともにヘルキャットを見るや列線で発進準備中の紫電改めがけて走った。

坂井少尉の「避難しろ」という叫びは届かなかった。杉田上飛曹は上昇しようと加速をはかったが、地上60メートルで命運はつきた。掩体壕のなかの飛行機をロケット弾と機銃で攻撃し終わったウェザラップ少佐は、離陸しかけている杉田機を見つけると上空で旋回し、後ろ上方から狙い撃ちの位置につけ、照準器にとらえた翼幅が充分大きくなるまで待ってから斉射した。杉田上飛曹は曳光弾に気がつき、横すべりさせようとしたが、間に合わなかった。ウェザラップは射弾が防弾鋼板にあたったのをみとめ、紫電改はうすく煙を吐きながら機首を下げた。そして杉田機は飛行場のはずれに激突し、火の玉となった。

坂井三郎

公式撃墜記録は日中戦争と太平洋戦争を合わせ28機を撃墜しました。

坂井にとって有名な逸話は1942年8月7日の話、ラバウル基地から1,000km離れたガダルカナル島より攻撃に向かった撃墜王・坂井三郎が重傷を負いつつ、奇跡的な生還を果たしています。

1942年年8月7日午前8時。ニューブリテン島ラバウル基地より、坂井三郎ら零戦隊18機はニューギニアの連合軍基地を叩くべく、出撃しようとしていましたが、突如、「待て」と命じられます。 実はソロモン諸島の東南端で最大の島であるガダルカナル島に早朝より、優勢なアメリカ軍部隊が上陸を始めているので、これを爆撃すべく陸上攻撃機隊を派遣することになりました。

ついては、ラバウルの零戦隊は陸攻隊を護衛してガダルカナル島に向かえ、という新命令が出されたのです。

ガダルカナル島まで、片道1,000km、しかも上空で待ち受ける敵の艦上戦闘機と戦う公算が大でした。つまり敵と空戦を行ない、なおかつ往復2000kmの飛行を行なうわけです。それでも坂井三郎はじめ、笹井醇一、西沢広義、太田敏夫らトップエース揃いのラバウル航空隊17機(1機故障で出撃できず)は、臆することなく、27機の一式陸上攻撃機を護衛してガダルカナル島へ向かいました。

坂井らは陸攻隊とともにガ島上空付近に差し掛かり、海面を埋め尽くす敵の大船団を確認します。 アメリカ軍は坂井らの接近を事前に察知しており、空母エンタープライズ、サラトガ、ワスプから発進した約60機のグラマンF4Fワイルドキャット戦闘機が待ち構えていました。

爆撃隊は陸上攻撃用の爆弾を投下するものの、戦果を挙げることができず帰途につきます。坂井らは護衛に徹しつつ敵戦闘機の接近を防ぎ、爆撃隊を安全圏まで掩護しました。そして、もう陸攻隊への敵機の追撃はないと判断したところで、零戦隊は再びガダルカナル島上空に戻ります。

この時、坂井は二人の部下と3機でペアを組んでいましたが、島上空に戻ったところで、敵戦闘機隊が上空から奇襲をかけてきて、零戦隊はめいめい応戦に追われます。気がつくと坂井の2番機、3番機の姿が見えません。 坂井は急いで部下たちを探し、下方で敵機に追われている2機を発見します。坂井は敵機の気を逸らすべく、3500mほど急降下して攻撃をかけました。敵は部下たちから矛先を変え、たちまち坂井と敵F4F戦闘機の一騎討ちとなります。4旋回、5旋回と左垂直旋回の巴戦が続き、荷重で脳貧血が起こりかけ、血液が下に行って両足が膨れてきます。しかし苦しさから逃れようと、次の動作に移った方が負けでした。果たして敵は機首を上げて、宙返りを打とうとし、その一瞬の隙をついて坂井は機銃弾を敵に見舞います。敵はパラシュートで脱出し、坂井のF4F初撃墜となりました。部下と合流した坂井は、攻撃をしかけてきたSBDドーントレス爆撃機を撃墜、さらに敵を求めます。

この日、77機の敵機に対し、17機の零戦隊は36機を撃墜しました。坂井は前方に8機の敵機を認め、背後から急接近し、機銃を撃とうとします。ところが…。 坂井が戦闘機と信じて接近した敵はドーントレス爆撃機でした。爆撃機には後部銃座に2挺の機銃が据えられており、坂井に向けて16挺の機銃が向けられていたのです。それでも坂井は機銃を放ち、2機に火を噴かせますが、自らも被弾、頭部に受けた一撃で意識が遠のきます。坂井機はぐんぐん高度を下げますが、風防板が被弾で失われていたため、強い風圧で坂井は意識を取り戻しました。坂井は後年、この時、「そのぐらいの傷で死ぬのか、意気地なし」と叱咤する母親の声を聞いたように思うと語っています。出血で視界は赤く、左手、左足も動きません。それでも視界の端に黒いものが通り過ぎるのを感じ、それが敵の輸送船団であることに気づきます。坂井機はガ島近くの海面まで降下していました。 輸送船団の砲火をかいくぐり、坂井はどうせ死ぬのなら、敵機と戦って死にたいと考えます。

しかし、敵機は現われず、坂井は愛機が致命的な損傷を受けていないことを知って、ラバウル目指して飛べるだけ飛ぼうと考えを変えました。それからガ島を後にすると、悪戦苦闘して頭部の傷を止血、睡魔と戦いながら、かすむ目で愛機を操縦します。実はこの時、眼球に細かいガラスの破片が刺さっていたのです。それでも何とかニューアイルランド島付近まで戻り、フラフラになって飛ぶ坂井機の姿は、ガダルカナルに殴りこみをかけるべく(第一次ソロモン海戦)向かっていた、三川軍一中将率いる第八艦隊に目撃されています。もはや燃料はほとんどないというところで、坂井はようやくニューブリテン島のラバウル上空に至りました。他の零戦隊が帰還してから1時間30分以上も経ってからのことで、搭乗員の誰もが坂井は戦死したと思っていただけに、皆が驚喜したといいます。

気力を振り絞り、微妙な操作で何とか指揮所近くに愛機を着陸させた坂井は、駆け寄った西沢と太田の肩を借りながら、なんと血まみれの姿でまず司令に報告し、それから昏倒して医務室に運ばれました。凄まじい気力であり、だからこそ、この奇跡の帰還をなし得たのでしょう。

「絶望は愚か者の結論。絶対に諦めない。あの時だって切り抜けた。今日も何とかしてみせる」

ゼロ戦のスケールモデル 1/144、1/72、1/48、1/32

ゼロ戦は世界で一番有名な日本軍戦闘機であると言えるので、1/32、1/48、1/72、1/144様々なスケールで販売がされています。

1/144 零式艦上戦闘機の塗装済み完成品 塗装済み組み立てキット、プラモデル等。


零式艦上戦闘機 零戦21型 空母赤城 飛行隊長板屋茂少佐機 AI-155


1/144 零式艦上戦闘機32型


1/144 零式艦上戦闘機52型


1/72 零式艦上戦闘機52型 谷水竹雄飛曹長機 完成品


1/48 零式艦上戦闘機 21型


1/32 零式艦上戦闘機 21型